奥三河 田峰城

長篠城から、武田勝頼の敗走ルートの豊川沿いを確かめながら北上して走り(なんかひどい)、深い木立の間を抜けて設楽町田峯の集落にやってきました。ここは長篠の合戦にも参戦した山家三方衆の一つ、田峯菅沼氏が居城を構えていた場所でもあります。街道からは見えない高所にあり、さながら隠れ里のような雰囲気の中で人々が生活しています。天空のカルデラのようです。

さて、ここまで長く走ってきたので、休憩に田峯観音の敷地内にある、だみねテラスにお邪魔しました。テラス席に腰かけ、ほっと一息つくと美味しいコーヒーが体に沁み入ります。田峯茶の羊羹も美味しかったですね。オートバイに優しいライダースカフェのようなスタイルで、見晴らしもいいし最高ですね。

遠く山並みを眺めていると、なぜか私のラインに高校総体弓道静岡県大会の様子が息子から逐次送られて来る(笑)。選手でなく応援に行っているようですが、いろいろな上位選手の射を見れることが刺激になるらしくハマっているようです。

私も高校時代に弓道をやっていたけど、息子ほど向き合えていなかった気がします。途中からはケガもあって思うようにやれず不完全燃焼で終わってしまったし。だから上手くいかなくても夢中になっている息子をなるべく温かく見守っています。ケガをせずじっくりとやってくれればいいと。

田峯観音へのお参りを済ませ、集落の反対側にある田峯城の方へと向かいます。ところで山家三方衆を知っていたら、なかなかの歴史通でしょうか。田峯の菅沼氏、長篠の菅沼氏、作手の奥平氏。大河ドラマで出てきたかもしれませんが、私が知ったのは今から15年ほど前、行きつけの眼科の待合室で横山光輝著の武田勝頼の漫画を読んだからでした。国境は勢力争いの地ということで、武田と徳川の間で翻弄され、情勢次第で各陣営に分かれ、中々に無残で可哀そうな事が起きながらも生き抜かなければいけない小勢力を知りました。その後本や地図でその名を目にする度に、どんな場所でどんな生活をしているのか、どんな地域なのかと気になっていきました。

信州に近く武田の勢力圏内であったため、当主の菅沼定忠は山家三方衆で唯一武田方で長篠の合戦に出陣しましたが、武田大敗の報を受けた留守居の叔父と家老の謀反にあって帰城できず、信州に敗走を余儀なくされてしまいました。恭順を示すための手のひら返しとはいえ、辛いですね。その後一族には悲劇が起こり、7年後に廃城となりました。

田峯城の建築は、当時の武家屋敷を偲ばせる書院造の様式で復元されています。位置的には、寒挟川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。現在は樹木が茂り足元を見下ろすことはできませんが、当時は本丸から見下ろした寒挟川の蛇行と城をいただく山並が大蛇の様であることから、蛇頭城とも呼ばれていたようです。

堀や曲輪なども小さいながらに起伏がある造りでして、こういう立体的な動きを現代の幼稚園や小学校に取り入れても面白いと思います。今の子たちは、足腰が弱くて手の力もなく、すぐケガをしてしまうとクライアントの先生方が嘆いていました。トレイルランのように、三次元のねじれの動きを生活に取り入れていた昔の人は(防御用だとしても)、やはり鍛えられていたことでしょう。