長篠、設楽原

今まで静岡から名古屋に行く時にずっと素通りしてきた奥三河へ初めて行ってきました。まずはその入口でもある、ずっと地形を確かめてみたかった場所へ。丘陵に挟まれた南北に狭いこの土地は、一体どこでしょう。

中央に小川が流れており、田畑の中に住居が散在し、農作業のかたわらで、のんびりと野焼きも行われていました。その現在の姿とは裏腹に、ここは今から450年前、日本史上最も激烈な戦いが行われた場所、設楽原です。織田徳川連合軍と武田勝頼軍の戦いです。

近世日本史の大転換点となった衝撃的な合戦ですから、ご存じの方も多いはず。屏風絵にも描かれた、中央の連吾川を挟んで両軍が対峙しました。右が武田、左が織田徳川。ただ、今まで小説や本を読んでもいまいち雰囲気的にピンと来ず、いくら鉄砲が大量にあったからって何で武田がそう簡単に負けるのかなと思っていたのですが、実際に訪れてみてその理由がよく分かりました。

この地形、全然「原」じゃないんです。連吾川の両岸が削られて河岸段丘のようになっており、武田軍から見て馬防策に行くまでにガタガタ下りて、川を渡ってガタガタ登らなければいけないんです。一番底に下りた時が一番無防備で狙い撃ち。これ騎馬戦ではなく、攻城戦ですね。まったく。ということは、武田軍に求められていたのはナポレオンが得意としていたような大砲の技術。信長と家康に地名から錯覚させられ、機動力が発揮できない地にまんまと引きずり込まれたようです。今でこそ田畑でそれなりに整地されてますが、昔はもっと川岸が荒れているはずですからね。

織田徳川陣営の馬防柵から武田川の陣地を見ると、こんなに見下ろす感じ。

向いの林になっているあたりが武田軍の本営で、数万の兵どうしが戦ったというにはあまりに近い。騎馬戦を行おうとは考えられないほど地形が狭く(皆さん、川中島の大平野を想像してはいけません。ここで魚鱗の陣とか鶴翼の陣なんて、ほんとありえませんから)、一旦向き合っちゃったら、逃げたら追いかけられることが怖くて、引くに引けなく突っ込んじゃったんだなあと思いました。う~ん。

この戦の7年後、武田家は滅亡します。信玄を支えた多くの重臣を失い、新しい力を築くことはできませんでした。それでも信長は武田を侮る事なかれと武田攻めを7年待ちました。

武田勝頼も父との世代交代時に人間関係とか色々あったかもしれないけど、父の重臣たちのいい意見は技術的意見として取り入れて、ゆっくり新時代の力を養う「待つ力」を持てていたら、違っていたのかもしれませんね。

※私の相棒のバイク、YAMAHAのYZF-R25(限定オレンジ)です。