気づけば年の瀬になってしまいました。今年ブログでちょこちょこと触れていた土地処理問題についてです。
実は9月に藤枝市との間では最終解決していたのですが、その後の土地利用をめぐり翻弄されてしまい、年末までブログを書く気が起きませんでした。しかしこの記事が皆さんの役に立つことがあるかもしれないと思い、書いてみることにしました。
さて官地とは何か。行政が所有する、地域の通り道や水路、堤など、公図の中で存在するもので、道路や河川ほど明確でない場合、昔の名残のものが実際の土地利用のなかに紛れた状態になっていることがあります。
今回の私の実家のケースでは、父の逝去に関わる相続前後で、既存住宅の真下中央を官地が南北40m以上に渡り縦断していることが発覚した事が、全ての始まりでした。
なぜこんな状態になっているのか。調べてみると、戦前の土地改良で敷地の中央を境に公図が別々に作られていたことが分かったり、戦後に官地の権利を村から買った譲渡証(地区の押印あり)が出てきたり(財務局は国庫に納めたとは認めず、藤枝市も思考停止…)、45年前の住宅改築時の確認申請では、当時の行政や関係者全員が気づかず許可を通してしまっていたりと、もうグチャグチャ。
さらに、東側の市道に接する敷地半分が農地のままであることが判明し、官地を挟んだ西側の宅地が接道していなかったりと、およそ現代の宅地として評価できない状態でした。
45年前の改築時に農転する時に、公図上の官地を実際の市道と勘違いしてしまい、一緒に農転しなかったことが原因でした。なぜか。本当の市道は、別々に作られたもう一つの公図の方に記載されていたから。法務局で自分の住所で公図取得申請したら誰も分からない。こちらは明治の頃の地図で作成されていたから(涙)。
そもそも実家には周辺にも農地がたくさんあるので、親はこの地番はどこかの一部だろうという感覚で、まさか敷地の下とは思ってなかったようで(固定資産税の課税地目ではしっかり宅地になってるのに。気づかんのか!)、唖然として腰が抜けそうになりました。
父の生前から足掛け2年に渡りいろいろ調べ、行政と協議しました。しかし市や国の役人達は基本的に先人達の失敗や負の遺産の解決を引き受けたくなく、諦めさせる方向に動いてきました。
それでも私は乗り越えて何とか解決しないといけないことだと思いました。八木家としては90年に渡り起きてきた問題です。今解決しなければ、私のように次の世代が迷惑するだけでしょう。次はどの手を打とうか、あれを立証することはできないか。少しずつ集めた資料を元に粘り強く交渉していると担当者の姿勢も変わってきました。
そこで私が行ったのは、まず建物下の農地については、戦前から宅地として利用している証拠をコツコツ集め、市の建設管理課と都市計画課に掛け合って既存宅地として認めてもらい、農業委員会で非農地証明を出してもらいました。その上で、法務局で農地から宅地へ地目変更登記を行いました。
これ、いきなり農転したいと農業委員会に行ってもダメで(最初は跳ね返されました)、本来なら建物を解体して更地にしてからじゃないと受け付けてもらえないため、結構苦労しました。しかしこれができないと、いくら官地がなくなったとしても道路と接する一帯の宅地にならず使いようがないためやるしかない。前半の山場でした。
次は敷地中央を南北40mに渡り縦断する官地について。一度先祖がお金を払っている(しかも譲渡証や覚書を読むと地区から結構たかられてる…)土地を改めて買い戻す肚を決め、土地家屋調査士を雇って官地の測量をしました。
公図2枚に(正確には3枚)別れた官地が、どの位置にあたるのか確定するため、周辺の登記図面を法務局で探し出し、明治、大正、昭和、平成、令和を行き来しながら時間的、周辺的整合性を検証し(もはや土地探偵)、やっとこうなのではないかと図面案を作成し、法務局の登記官の了承を取付け、それを実際の土地の上でポイントを打って決めていきました。官地の面積が買取金額に反映されるため、神経がすり減る作業でした。
そして導き出した官地を、市の立ち会いのもと境界確定し、町内会長や隣人の同意も得て市に用途廃止申請(元々機能は失われているんだけど建前として)を行い、法務局で土地表題登記と地図訂正申請、地目変更登記(水路、堤から宅地へ)を行い、やっと市所有の宅地という状況を作って、それに対し売り払い申請を行いました。ちなみに測量と表示登記と地図訂正は土地家屋調査士が、それ以外の申請関係は全て自分で行いました。
すべての工程が月単位でかかるので、我慢比べのようにジリジリと、スキを見せずに対応し、最終的に契約書ができて金額が確定したら、即座に支払いました(もう終わらせたくて必死)。
数百万覚悟していたので、結果的に数十万で済んだのは良かったけど、本当に本当に大変でした。