名古屋城

本日はJIAの総会が名古屋であったので、その前に名古屋城を訪れました。散々名古屋に来ておきながら実は今回が初めてです。

地下鉄市役所駅で降り、東門から入り二の丸の先にまず現れたのは、本丸東南の辰巳櫓でした。ん?あれれ、なんかデカイ・・・。見慣れた静岡の駿府城と違い空堀なのでそびえ立ち感が半端ない。櫓も立派で、その距離感から明らかに鉄砲や大筒での攻城戦を視野に入れていることが分かります。対豊臣を想定した、江戸初期の軍事要塞ですね。その威容を横目に、表二之門をくぐり虎口を経て本丸へ進みます。

戦争により空襲で焼失した本丸御殿の復元工事が開始されたのは2009年。それから3期9年の工事を経て、昨年の2018年に全体公開となりました。

写真は内部の梅の間で、将軍をもてなす上級家臣の控えの間です。天井板の桟や障子を見ても、簡素なデザインで若干無骨なスケール感が分かります。たとえ襖絵や装飾があっても、武家の建物であることを感じました。

ちなみに現在の御殿は玄関、表書院、対面所、下御膳所、上洛殿、御湯殿書院などが復元されていますが、展示してあった古図面を見ると、もっと多くの室がいくつもの廊下で網の目のようにつながれ、多くの人々が働いていた様子が分かります。徳川御三家筆頭、尾張62万石の政庁と感じました。

御殿を過ぎると、北西の天守閣が見えてきました。現在は残念ながら耐震性の問題で内部見学ができませんが、その問題解決と共に資料に基づいた天守閣の木造復元計画が進められているそうなので、楽しみに待ちたいと思います。

ちなみに屋根の上の金の鯱ですが、1体の重量が1200キロ以上あります。水を呼ぶ火除けのまじない、徳川家の権力と財力の象徴は、地元トヨタの小型車1台分ほどの重さです。また足元の石垣の石には所々目印が施されています。天下普請として請け負った大名達が、他の大名の石と区別できるよう刻印を打ったようです。

さてお目当ての場所にやってきました。西北の戌亥櫓・清須櫓の前に立ち、北側の水堀の向こうの市街地を望みます。何か気づきますか?正解は土地の高さが違います。ここまで坂や階段を登ってきたわけでもないのに、今いる地面が向こうの建物の3階から4階ぐらいの高さですから、10m位土地の高低差があります。実は名古屋城は熱田台地の西北端に建てられており、この高低差を利用した守りの堅い軍事要塞になっているのでした。これを以前知ってから、現地で直に確かめたいとずっと思っていて、確かめるにはここに立つのが一番と思いやってきた次第です。

ということで、今日の目的の半分はこの高低差の確認。納得。満足しました。

いつも名古屋に来ると、名古屋駅から栄とか、大学とかに向かうくらいでしたが、今回改めて名古屋城に来ることで、やっと名古屋のまちづくりの始まりに立つことができました。

三の丸の家老屋敷跡地が官庁街、その南の碁盤の目状の街区が現在の中心市街地となっていますが、城下建設当時に、この地域の地形を巧みに利用しながら名古屋の基礎を作り上げたことを理解することができました。

思えば家康が秀吉に駿府から葦原だらけの江戸に追いやられ、家臣達と長年苦労して大都市を作り上げた経験が生きたのかもしれません。徳川家の人々の努力に頭が下がりました。

総会後の講演会ではJIA東北の鈴木副支部長が、震災後の復興や地域の現実について講演してくださりました。ボランティアの限界、民間での知恵、建築家が日常から地域へ入っていくことの大切さなどを学びました。また、業容を固定しずぎず、いろいろな形の事業をしてもいいんじゃないかという可能性を感じる講演会でした。