間について

 

何も持たないということは、全てを所有することです。

これは何の思想かというと、禅思想です。

 

建築家の磯崎新は、彼が設計した水戸芸術館の中で、あるインタビューにこう答えている。

 

「間」というものは点と点の間に存在します。音と音の間にも間はあります。

そこには何もないただの空白です。静寂でもあります。無だから聞くことも見ることもできない。でも感じることはできる。そこが大事なんです。

物は物に過ぎない。用が済めば交換もできる。でもその中の空間は、そして音と音の間は最も重要な要素であって、その中に入り体感しなければ意味がない。

 

私が建物の設計をする際に常に心がけていることは体感できる空間をつくることです。視覚だけでなく五感で感じる空間。中に入るだけで感じる空間。あるいは時には、その建物を見ただけで過去に経験したことを思い出すかもしれない。その空間を体験することによって、各自の体験が喚起される。それが空間の果たすべき重要な役割です。と。

 

水戸の地名は水門を意味する。水の出入り口。市内中心部に千波湖や河川が集まる水に関連した土地柄だ。

ただこの週末に初めて街を訪れ思ったことは、街が平坦で建物に覆われてしまうと川を渡ったり迂回する中で今自分がどこにいるのかわからなくなってくるということだった。

 

もちろん慣れればそんなことはないのかも知れないが、建築家はこの文化施設を設計するにあたり併設して大きな塔をつくることで、市内の各所と建物が位置する中心部との間にも「間」をつくろうとしたのではないか・・・と、タクシーの車窓からぼんやり塔を眺めながら思った。

 

古来日本には建築という概念が無かった。もちろん昔だって住宅や建物はあったけど「概念」はなかった。それが日本の建築が抱え込む矛盾であり、大きな問題点。

我々は建築をいかに検証し解釈するか。また伝統的な建物をどうみるべきか。

桂離宮や御所は実に美しい建造物だけど、それを建築とは呼べないんだろう。

 

徳川の歴史と深い縁を持つ地方都市水戸。建築家は塔一本でまちの在り方自体を変えようとしたのかもしれない。